2019年3月22日金曜日

04_林芙美子記念館


木造住宅を設計しているからか木造建築に関心がある。 
1941年山口文象氏設計による林芙美子記念館は以前から訪れてみたい建物の一つであった。
 
「家をつくるにあたって」と記念館入口のアプローチには芙美子自身の言葉がある。そこには「家を建てるについての参考書を二百冊近く求めて、およその見当をつけるやうになり、材木や木や、瓦や、大工に就いての智識を得た。大工は一等のひとを選びたいと思った。まづ、私は自分の家の設計図をつくり、建築家の山口文象氏に敷地のエレベーションを見て貰って、一年あまり、設計図に就いてはねるだけねって貰った。東西南北風の吹抜ける家と云うのが私の家に対する最も重要な信念であった。客間には金をかけない事と、茶の間と風呂と厠と台所には、十二分に金をかける事と云うのが、私の考へであった。」と書かれていた。
この言葉から林芙美子の家に対する思い入れが伝わってくるし、当時、住宅に関する書籍が数多く出ていた事ことからもいつの時代も住まいへの関心は高いということがわかります。



建物は軒が低く、芙美子名義の母屋と緑敏名義のアトリエで構成されている数寄屋的民家風というべきか、芙美子の嗜好が良く表現されている住宅だ。平面的には分棟形式をとっているが、その理由は計画中の昭和1411月に「木造建物建築統制」が発令され、総面積を、農家は48.4坪(160m2)以内、その他の建物は30.25坪(100m2)以内に制限されていたためで、木材の需要が増大し、不急不要な贅沢品は建ててはならない当時の社会状況から生まれた計画だった。もしその制限がなかったらどういう建物になったのだろうか。ただ結果として庭とのつながり、機能の分節化が出来たおかげで建物のボリューム感や心地よいスケール感を生んだとも言えるのではないだろうか。余談ではあるが、前川國男自邸などはこの制限下に建てられた住宅である。
建築は社会的背景に大きく左右され、決して建築家の独断で出来上がるものでもない。時代が変わればダメなものも良しとされる変わりに、良しとされたものが既存不適格の建物となってしまうことは良くあることである。時代とともに変わる価値観によって建築の運命も変わってしまう場合がある。
住宅を建てるにあたってのエピソードとして夫である緑敏氏によればこの住宅の「原イメージ」としては吉田五十八氏が設計した吉屋信子邸があったと言う。
吉屋信子との会話の中で「 家を建てるときは建築家に依頼するのが一番よ」、なんてこともあったかもしれないし、芙美子はパリに留学中、白井晟一氏と関係を持っていたことは周知の事実である。(「林芙美子 巴里の恋」を読むと当時の様子がわかる。白井晟一氏は林芙美子の著作のタイトルにもある浮雲という名の建物を秋田県湯沢市に設計している。)

当時の芙美子にとって建築家は案外身近な存在だったということはわかる。ただなぜ設計を山口文象氏に頼んだのかその経緯はわからないが、グロピウスの元で学んだ文象氏がこの手のスタイルの住宅を設計する事はどう考えれば良いのだろうか。同時期に久が原に自邸を建てている文象氏は、これを「戦時中の悪夢」と称し、戦時中の国際建築スタイルの弾圧から、自分の心の中にあった民家への郷愁の日本的なものへの回帰した設計をし、作品として戦後10年を経て発表している。そしてこの林芙美子邸も日大の近江研により竣工後40年を経て発表された事になっていることから考えれば、当時の山口文象氏からすれば発表したくなかったのだろうか、それとも他に理由があったのだろうかと勘ぐってしまう。



後に芙美子は「自分の家を建てゝみて、もう、家を建てるのはこりごりだと思ふが、何よりも、人まかせでは居心地のいゝ家は建たないと云ふ事を悟った。」と書いており、この住まいを建てた経験から、建築の専門家ではない建て主に対して、「設計家の意見をきき、いいアイデアを教わる事」、「青写真を幾枚もつくって、設計をねる事」、「設計図を見た上で、建て主は便利さを考え、幾度も手を加える事」、「「設計」を無視した家程、無趣味で貧弱なものはない」と語り、苦労はすれども、基本的に建築家と共に建てる住まいの良さを感じていたように感じる。
住宅はそれぞれの住まい手のストーリーを持っている。記念館という形を変えた住まいは我々を含め、後世へとその精神を語り継いでくれる貴重な建物だと感じました。


設計者:山口文象
竣工:1941年
所在地:東京都新宿区

撮影日:2008年3月27日

2010年4月26日付 コラムより再掲

0 件のコメント:

コメントを投稿