2019年4月14日日曜日

07_神奈川県立近代美術館 鎌倉


今回は2016年1月31日をもって一般公開が終了した神奈川県立近代美術館 鎌倉。
通称「カマキン」なんて呼ばれているようで、個人的には今回初めて知ったのですが、たぶん訪れたのは数年ぶりくらいでしょうか。
何度か訪れたことはあったのですが、今回は閉館を惜しむ人たちで行列が出来ていました。

日本初の公立近代美術館として1951年(昭和26年)に開館。
戦後間もない時期にニューヨーク、パリに次いで世界で3番目の近代美術館だという。
そんなカマキンが建つ敷地は鶴岡八幡宮の境内。借地契約満了に伴い、敷地返還するため65年の歴史に幕を閉じる。
鎌倉館本館はとりあえず、保存される方向で調整されているようだが、隣接する新館と学芸員棟は取り壊されるのが決まっている。
建物の寿命というのは様々な要件によって決まってくるが、こうした美術館でもなかなか100年以上維持されるのは難しいのでしょうね。
ただ機能や用途を変え、その後半永久的に残ってほしいとも思う。
今でこそ、鶴岡八幡宮の境内に建つカマキンは風景の一部と化していると思うが、竣工当時はどうだったのだろう。
建物が風景化するには時間がかかるし、それを維持するにはコストもかかる。
時代とともにそのニーズが変化し、機能が追いついて行かなくなり、耐震性の強化も必要となれば、新しい技術で最新のものを望むのが日本の実状といえよう。
文化的価値、歴史的価値のないものは壊され、新しい建物が建つ。
こうして古いものが残るという機会は極力少なくなり、新しいものに置き換わっていき、風景も時代とともに変化していく。
今回は本館が残るということが救いである。
どういう形で今後、残されるのか注目したいですね。
できれば一般公開してほしいものです。

追記
あれから3年が経ち、今年の6月8日に「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」として生まれ変わります。
開館に先駆け、今月の20日(土)から5月6日(月・祝)までの間、建築を公開し、「新しい時代のはじまり」展を開催するそうだ。
どのように改修され生まれ変わったのか、建物が壊されず、活用されていく例としてこの目で確かめてみたい。




カマキン自体はこじんまりとしたちいさな美術館。
完成当時は自然光を採りいれるためのトップライトがあったそうだ。




やはり平家池に面した1階のテラスが一番の見せ所である。




階段の手摺はシンプルかつ大胆なデザインであるが、綺麗な曲線で仕上げている。




中庭。
開館当初は北側の壁面に映画を投影するスクリーンがついていたそうだ。




中庭側の大谷石の壁にあけた隙間にはめこんだガラスブロック越しの中庭。




閉館前にカマキンを訪れることができてよかった。
結局、数えるくらいの回数しか行くことが出来ませんでした。
またいつの日か訪れることが出来ることを楽しみにしていよう。

設計者:坂倉準三
竣工:1951年
所在地:神奈川県鎌倉市
撮影日:2016年1月24日

2016年2月2日付 デザインスタジオバオバブのスクラップブックより転記再掲

2019年4月7日日曜日

06_山口蓬春記念館


ちょっと小旅行気分になる感じの葉山の山口蓬春記念館まで出かけてきました。
以前から一度行ってみたいと思っていた建物の一つではありましたが、なぜわざわざそこに出かけて行ったかというと、昨日まで秋季展ということで「山口蓬春と吉田五十八 ー日本画家と建築家のコラボレーションー」が行なわれていて、いつもは公開されていない「桔梗の間」と吉田五十八設計の「茶の間」が特別公開されていたからです。

昨日は天気も良く、というか良すぎて雲一つない空でしたね。朝、出かけの駅のプラットホームから富士山がよく見えました。

天気が良すぎたせいか、大宮から湘南新宿ラインで逗子まで直通で行ける予定が、人身事故やら線路内立入りやらで電車が遅れに遅れ、逗子行きが大船止まりとなり、結局30分以上遅れて逗子に着きました。
更にそこからバスに乗って20分ぐらいで着く予定でしたが、これも天気のせいか道路が渋滞、30分以上揺られることに。

ただバスの中からは朝見た富士山が今度は海越しに見ることが出来て、気分的にはほっこり。
しかし昨日は暑いことは暑い日でしたが、海で泳いでいる人がいたのにはちょいと驚いたし、服装が海岸近くということもあってみんな軽装なのには少し地域性を感じました。

さて三ヶ丘・神奈川県立近代美術館前でバスを降りてちょっと戻った細い路地を入っていくと案内にあったので行ってみると確かに細かった。

案内に沿って少し歩いて行くと鉄骨のフレームの入口が見えてきました。鉄骨のフレームの塗装は紫外線でかなり劣化して、色が落ちていましたね。
この記念館正面入口のガラスと鉄骨のフレームなどは平成3年に大江匤氏によって記念館として開館する際に改装された部分。



中に入ると最終日にもかかわらず、空いていました。というわけで15分間の山口蓬春のDVDを鑑賞を勧められ、そのあと館内を廻ることにしました。

建物自体はもともと昭和初期に建てられたもので、戦時中は会社の寮として使われていたといわれているものです。山口蓬春と吉田五十八は現東京芸術大学の同期で親しい友人だったこともあり、東京にあった自邸を吉田五十八が設計を行なっていました。
戦争で疎開を余儀なくされ、自邸を手放し、最終的にこの葉山の土地を終の住処とした蓬春は五十八との交友関係から、再びこの建物の新画室と内玄関及び茶の間の増築も五十八が設計を行なった。ちなみに蓬春のお墓も五十八が設計している。

吉田五十八のディテール一つ一ついろいろ考えられていて、空間をスッキリ見せる工夫が随所に見られる。それは造り手がお気に入りの水澤工務店が担当していることも関係していると思う。きれいに見えるディテールは設計だけでなく、造る側の技量も必要になるから....。

個人的には吉田五十八は好きな建築家の一人であり、その数寄屋的和モダンの空間構成はとても参考になります。
旧画室として使われた2階の座敷も公開されていて、見晴らしはいいのですが、昨日の天気でもちょっと暑く感じ、夫人曰く「夏は暑くて素裸でした」というように、夏は少し大変だったんだろうなと容易に想像できた。(今夏なんていったら相当大変じゃないかな)
そういう意味では五十八の設計した新画室は庭、建物、内と外の関係がとても良く出来ている空間になっていて、気持ちがいい空間だった。




ここまで来るのに3時間以上かかったけど、来てみてよかったですね。
現存する吉田五十八設計の建物も少ないし、住宅で見学できるものの限られている。ましてや木造住宅の場合、こうして記念館のような形で残るのは稀だし、残っていても見ることが出来るものは少ない。こうして少しでも触れる機会があるものは見ておきたいですね。

今回の特別公開されたお部屋は記念館の方に聞いてみると年に何回か公開しているようですが、一定期間公開したのは初めてだそうです。結局、来るのが最終日になってしまいましたが、特別公開の部分を見ることが出来たのは良かったです。


設計者:吉田五十八 大江匡
竣工:1953年(増築)1957年(一部増改築)1991年(改築)
所在地:神奈川県三浦郡葉山町


撮影日:2010年10月11日

2010年10月12日付 デザインスタジオバオバブのスクラップブックより転記再掲

2019年3月25日月曜日

05_吉屋信子記念館


現在は市民の学習施設として利用されている吉屋信子記念館(旧吉屋信子邸)
吉田五十八氏による設計で春と秋に期間限定で公開されている。
ゴールデンウィーク中は毎日一般公開されていたので見に行った。




吉田五十八設計の建物は初めての経験で現代数寄屋建築の印象が強いけれど、デザインがすっきりしていてモダニズムにも通じる落ち着いた印象を受けた。
建物は昭和37年に建てられ、70坪程度の木造平屋となっている。パンフレットによれば『吉屋に「奈良の尼寺のように」と望まれて、この長谷の家を設計した』ということだ。
また敷地は570坪ほどある。これらは故吉屋信子さんの遺志により、鎌倉市に寄贈され、昭和49年に開館した。




北側に設けられた書斎の窓から見える藤棚。トップライトからの光がとても印象的でした。

庭から自然豊かな環境の中に佇む建物を見ると、こういう環境で創作活動をすると自分の中からどういう物が生まれてくるのだろうか。思わず考えてしまう。
春秋の期間限定ではありますが、見学出来るので鎌倉に行った際は見に行かれてみてはいかがでしょうか。

設計者:吉田五十八
竣工:1962年
所在地:神奈川県鎌倉市
撮影日:2008年5月6日
国登録有形文化財(2019年)

2008年5月26日付 デザインスタジオバオバブのスクラップブックより転記再掲


2019年3月22日金曜日

04_林芙美子記念館


木造住宅を設計しているからか木造建築に関心がある。 
1941年山口文象氏設計による林芙美子記念館は以前から訪れてみたい建物の一つであった。
 
「家をつくるにあたって」と記念館入口のアプローチには芙美子自身の言葉がある。そこには「家を建てるについての参考書を二百冊近く求めて、およその見当をつけるやうになり、材木や木や、瓦や、大工に就いての智識を得た。大工は一等のひとを選びたいと思った。まづ、私は自分の家の設計図をつくり、建築家の山口文象氏に敷地のエレベーションを見て貰って、一年あまり、設計図に就いてはねるだけねって貰った。東西南北風の吹抜ける家と云うのが私の家に対する最も重要な信念であった。客間には金をかけない事と、茶の間と風呂と厠と台所には、十二分に金をかける事と云うのが、私の考へであった。」と書かれていた。
この言葉から林芙美子の家に対する思い入れが伝わってくるし、当時、住宅に関する書籍が数多く出ていた事ことからもいつの時代も住まいへの関心は高いということがわかります。



建物は軒が低く、芙美子名義の母屋と緑敏名義のアトリエで構成されている数寄屋的民家風というべきか、芙美子の嗜好が良く表現されている住宅だ。平面的には分棟形式をとっているが、その理由は計画中の昭和1411月に「木造建物建築統制」が発令され、総面積を、農家は48.4坪(160m2)以内、その他の建物は30.25坪(100m2)以内に制限されていたためで、木材の需要が増大し、不急不要な贅沢品は建ててはならない当時の社会状況から生まれた計画だった。もしその制限がなかったらどういう建物になったのだろうか。ただ結果として庭とのつながり、機能の分節化が出来たおかげで建物のボリューム感や心地よいスケール感を生んだとも言えるのではないだろうか。余談ではあるが、前川國男自邸などはこの制限下に建てられた住宅である。
建築は社会的背景に大きく左右され、決して建築家の独断で出来上がるものでもない。時代が変わればダメなものも良しとされる変わりに、良しとされたものが既存不適格の建物となってしまうことは良くあることである。時代とともに変わる価値観によって建築の運命も変わってしまう場合がある。
住宅を建てるにあたってのエピソードとして夫である緑敏氏によればこの住宅の「原イメージ」としては吉田五十八氏が設計した吉屋信子邸があったと言う。
吉屋信子との会話の中で「 家を建てるときは建築家に依頼するのが一番よ」、なんてこともあったかもしれないし、芙美子はパリに留学中、白井晟一氏と関係を持っていたことは周知の事実である。(「林芙美子 巴里の恋」を読むと当時の様子がわかる。白井晟一氏は林芙美子の著作のタイトルにもある浮雲という名の建物を秋田県湯沢市に設計している。)

当時の芙美子にとって建築家は案外身近な存在だったということはわかる。ただなぜ設計を山口文象氏に頼んだのかその経緯はわからないが、グロピウスの元で学んだ文象氏がこの手のスタイルの住宅を設計する事はどう考えれば良いのだろうか。同時期に久が原に自邸を建てている文象氏は、これを「戦時中の悪夢」と称し、戦時中の国際建築スタイルの弾圧から、自分の心の中にあった民家への郷愁の日本的なものへの回帰した設計をし、作品として戦後10年を経て発表している。そしてこの林芙美子邸も日大の近江研により竣工後40年を経て発表された事になっていることから考えれば、当時の山口文象氏からすれば発表したくなかったのだろうか、それとも他に理由があったのだろうかと勘ぐってしまう。



後に芙美子は「自分の家を建てゝみて、もう、家を建てるのはこりごりだと思ふが、何よりも、人まかせでは居心地のいゝ家は建たないと云ふ事を悟った。」と書いており、この住まいを建てた経験から、建築の専門家ではない建て主に対して、「設計家の意見をきき、いいアイデアを教わる事」、「青写真を幾枚もつくって、設計をねる事」、「設計図を見た上で、建て主は便利さを考え、幾度も手を加える事」、「「設計」を無視した家程、無趣味で貧弱なものはない」と語り、苦労はすれども、基本的に建築家と共に建てる住まいの良さを感じていたように感じる。
住宅はそれぞれの住まい手のストーリーを持っている。記念館という形を変えた住まいは我々を含め、後世へとその精神を語り継いでくれる貴重な建物だと感じました。


設計者:山口文象
竣工:1941年
所在地:東京都新宿区

撮影日:2008年3月27日

2010年4月26日付 コラムより再掲

2019年3月21日木曜日

03_東京カテドラル聖マリア大聖堂


初めて見るその姿には存在感、力強さ、たくましさ、そしてエネルギッシュなパワーに圧倒されました。
昨年(2007年)、大改修工事が行なわれてリニューアルしたとはいえ、これが40年以上も前に建てられた建物かと思うと世界の丹下が遺した建築は偉大である。



この建物は計8枚の互いに支持し合ったRC造のHP(ハイパーポリック・パラポロイダル=双曲放物面的)シェル構造で地下にはそれらをつなぐタイビームが設けられている。
平面的に上から見ると十字形をしており、その部分がトップライトとなって、天井から十字の光がふりそそぐようになっている。
内部空間は荒々しいコンクリートの打ち放しで、天井が高く教会としての崇高な空間を現代の技術とデザインで見事に昇華している。残響時間にも苦労したようだが、次回は日本最大というパイプオルガンの生音をぜひ聞いてみたいところだ。



この東京カテドラルは都市的スケールを持ったシンボリックな建物である。国立代々木競技場や広島ピースセンターもそうだ。そして都庁も。
時代というのもあったかもしれないが、都市の中でこの建築が存在することを表現するとこうだろうという感じで、現代の建築には感じられない圧倒的な存在感は良い意味で都市にインパクトを与えている様に感じた。そしてこれから先何十年とその姿は東京という都市の中で生き続けていくに違いない。
残念ながら内部は撮影禁止だったので、写真はありませんが、ぜひ1度その内部空間を体験しに足を運ばれてみてはいかがでしょうか。


設計者:丹下健三
竣工:1964年
所在地:東京都文京区
撮影日:2008年3月27日

2008年4月2日付 デザインスタジオバオバブのスクラップブックより転記再掲




2019年3月20日水曜日

02_聖アンセルモ目黒教会


目黒駅から歩いて5分程度の山手線沿いにある聖アンセルモ教会。
A.レーモンドの設計。1954年竣工
65年近く前の建物だ。
内部に入るとスリットから入り込む光が東京の雑踏を忘れさせてくれる。
当初はすべてにステンドグラスを入れる予定だったらしいが、予算上不可能になり、ノエミ夫人のゼラチン・ペーパーののりづけがされたらしい。当然ながら
数年のうちに剥離してしまったということだ。
又今と違った印象だったに違いない。
正面の天蓋はレーモンドが発想したオリジナル。不思議な雰囲気を醸し出している。



東京には壊された建物も多いが、まだ残っている建物も意外とある。歴史的価値、文化的価値などその建物が刻んできた歴史を少しでもふれる機会を残してもらいたい。
まだ見た事の無い建物も多く有り、できるだけ時間をとって見て回りたい物だ。


設計者:アントニン・レーモンド
竣工:1954年
所在地:東京都品川区
撮影日:2008年2月21日

2019年3月19日火曜日

01_聖オルバン教会



先日、A.レーモンド設計の聖オルバン教会に行ってきました。以前から見たいと思っていたのですが、なかなか時間が取れず今回やっと行けました。
東京タワーのすぐ近くにあり、こんな場所にこんな建物が建っていたんだ。と思ってしまうほどでした。1955年か56年あたりの竣工なので東京タワーよりも前に竣工している。当時の状況から考えるとコストはかけられないため仕上げするよりも構造=デザインになって表現される場合が多い。内部空間に入ると丸太を用いたトラスの小屋組が素朴でありながら力強さを表現していた。


50年以上経過しているが、大切に使ってメンテナンスをしていけば何十年という年月は問題ではない。建物は使い手次第でその寿命は延びもするし、縮むこともある。

見学した日は教会の方がパイプオルガンを練習されていた。(竣工当時は無かったものだろう)心地よい音色が小さな木造の教会内部に響き渡り、座るとずっと居たくなるような心地よさを演出していた。
都内ではこういう建物は珍しい。東京タワーのすぐ近くなのでぜひ一度立ち寄ってみてはいかがだろうか。(教会なので基本的には開放されているが、日曜などはミサがあったりするので時間を調べて訪れてみて下さい。)


設計者:アントニン・レーモンド
竣工:1956年
所在地:東京都港区
撮影日:2008年2月21日